今回は「生物多様性とは何なのか」「生物多様性の保全とは何なのか」についてまとめたいと思います。
生物多様性保全の議論の際に、「生物が絶滅するのはかわいそうなので大切にしましょう」という意見にとても多く接します。
しかしこれはかなり的を外した意見であるということを先に言わなければなりません。
怒る方もいらっしゃるかも知れませんが、理由があります。
例えを使いながら順を追って説明します。
まず、宇宙船に乗って体一つで地球の外へ出たとしましょう。
そこでは以下のような多くの課題が生じます。
・食べ物はどこから調達するのか?
・汚染されていない空気はどこから調達するのか?
・汚染されていない水はどこから調達するのか?
・自分の廃棄物はどのように処理するのか?
・体調を壊した際に薬はどこから調達するのか?
何も無ければ、数日も経たずに人は死んでしまいます。
地球上でこれらが問題とならないのは、そこに以下のような生物由来の資源があり、物質が循環しているからです。
・食べ物の基礎となる生物、環境
・空気の汚染を緩和、浄化する生物、環境
・水の汚染を緩和、浄化する生物、環境
・廃棄物を分解する生物、環境
・薬品の原材料となる生物、環境
普段これらは全く意識されませんが、無ければ人の生活が成り立ちません。
もともと人間も生物ですから、これは当たり前の話です。
これまで当たり前すぎて気付かなかったのです。
つまり生物多様性はそれが損なわれれば持続的な社会生活が営めなくなる性質の、極めて重要な社会基盤であるということです。
次に「必要な生物さえいれば良いのではないか?生物が多様である必要はあるのか?」について考えてみましょう。
そこには「予防原則」という考え方があります。
現在の科学では、多種多様な生物の多種多様な相互作用について、そのごく一部についてしか解明されていません。
影響が無さそうに見える生物であっても、重要な機能や作用を持っている可能性があります。
つまりどの種がどれほど重要であるかが分からないということです。
どの生物がどのような作用を持っているのかは、皮肉にも、失われた後になってある程度の範囲で明らかになります。
これまで人類は、生物の相互作用に関する無知によって多くの失敗を繰り返してきました。
マングース、オオクチバス、オオヒキガエルといった外来生物による失敗や、オオカミ絶滅後の大型哺乳類の増加など、国内に限っても挙げればキリがありません。
上記の例のように、生物間のバランスの崩壊は、顕在化して問題が認識されるまでに数十年~数百年レベルの時間がかかるものばかりです。
上記の例も、あるいは別の生物の絶滅の例も、未だその影響の全てが明らかになっているわけではありません。
長い期間を経て取返しがつかない状況になって初めて、ある生物の生態系の中での機能や影響の大きさが明らかになるのです。
生物多様性は、人間の活動が発生させる多様な問題のクッションとしても作用しています。
人の生活は環境に極めて大きな負荷をかけています。
環境から膨大な生物資源を収穫し、消費し、圧迫し、廃棄物を出すというサイクルを続けているからです。
生物多様性は、人間生活のインパクトを多様な種へ分散させて速やかに解消し、偏った種に負担がかかることを回避する作用を持っています。
人の生活は、生物多様性のセイフティネットに支えられて成り立っているようなものです。
では生物多様性がどの程度減少すれば、どの程度の影響が出るのでしょうか?
実はそれもさっぱり分かりません。
先述の通り、生物間の相互作用はほとんど解明されていないのです。
ただし、人にとっては常に不都合な影響となるでしょう。
なぜでしょうか?
現在は地球の歴史上、6度目の大量絶滅期だと言われています。
過去の生物史を見ても、生態系というのは非常に強靭です。
多くの種が絶滅しても、膨大な時間をかけることで、残された種の中で適切なバランスと役割が探し出され種の多様性が回復してきました。
しかし「生態系の強さ」と「人間社会の強さ」は別物です。
ヒトが現在のホモ・サピエンスという種になったのは10~20万年前だと言われています。
新しい種が生まれるには途方もない時間がかかります。
生物多様性が一度失われれば、ホモ・サピエンスという種が生存している間に多様性が回復することはないでしょう。
ヒトも一つの生物種にすぎません。
人類は他の生物を含む地球の環境に生かされている立場です。
現代の人の生活は、長い期間で培われた生物多様性を前提として設計されています。
これまでその地で脈々と続いてきた生物の構成に適応させた形で社会生活や文化が組み立てられており、変化への対応が困難な部分を多く抱えています。
生物多様性が損なわれれば、
「こうなるはず」が「そうならない」
「これで十分」が「全く足りない」
「前代未聞」が「これからは当然」
といった生物学的な変化が様々な分野に現れ、その対応へ膨大なコストがかかることになります。
ヒトは大型の哺乳類であり、その生活サイクルを支えるためには多様かつ多量の資源が必要です。
特に各地域の農林水産業や住環境(災害リスク)、これまでと同質な空気、土壌、水といった最も基本的な資源の確保は、生物多様性のほころびに強く影響を受けます。
生物多様性のクッションが減退し、構成種が単純化すれば、構成種の増減の変動幅も大きくなります。
有益な生物資源や代替する生物資源の候補が少なくなることに加え、疾病や病虫害など毒性や害性のある生物の偏った増加が起こりやすくなります。
人が収穫する生物資源はその収穫の影響で減りやすくなり、人が作り出した人工的な環境が拡大すればそれを利用する生物が増えやすくなるからです。
人間社会が成長するためには、新たな素材や新たな機能の発見が必要です。
生物多様性が抱える膨大な未知の素材や機能が失われていけば、社会の継続的な発展も難しくなるでしょう。
生物多様性のクッションが弱まった状態で人の活動が続けば、人間生活のインパクトが局所の生物種へ集中し、さらに生物多様性が損なわれる連鎖が起こります。
安定的な変化という意味で、全ての生物が生物多様性の恩恵を受けています。
生物多様性のクッションが損なわれれば、人間に限らずあらゆる種の存続に影響が出ます。
絶滅の連鎖が始まればどこまで問題が落ちていくのか、それも分かりません。
これは生物1種の絶滅と同様、どのような影響がどのような規模で出現するのか、取返しが付かない状況になって気付くことになる性質のものです。
生物資源の争奪は、生物種間のみならず同一種内でも生じます。
事態が悪化すれば人間同士で資源や環境の奪い合いが生じるということです。
どの種の機能が致命的であったのか解明されぬまま、人間という種の存続が難しくなる未来を迎える可能性すらあります。
現代の大量絶滅を経た後に、幸運にも人類が「残された種」に含まれていたとして、その残された種や環境が人の望む形になるわけではありません。
大量絶滅が進んでしまえば、いずれにせよ人類の活動は大幅に後退することになります。
これらの影響を避けるためには、予防が必須であるということです。
繰り返しますが、生物多様性は人が「普段通りの社会生活」を過ごすための非常に重要な基盤であり、「かわいそうだから守りましょう」という感傷的な努力目標ではないのです。
現在の生物多様性保全に関する最も大きな課題は、「その目的と価値が一般に浸透していない」状況です。
生物多様性が社会の基盤であると考える人は、残念ながら多くはありません。
「生物多様性は生き物好きだけの問題で、社会には無関係」と感じる人が多くいれば、本来はそれ自体がとても大きなリスクです。
例えば「義務教育は子供好きだけの問題で、社会には無関係」という人はほとんどいないと思います。
もしそのような考え方を持つ人が多数派となれば、教育への投資が途絶え、結果として社会も大きく衰退します。
義務教育も生物多様性も、全ての人が恩恵を受け社会の土台となる点では同じです。
しかし残念ながら、生物多様性保全の意義はまだ教育の意義のようなレベルでは浸透していません。
近年はこういった背景を踏まえ、生物多様性の恩恵を経済学的観点(つまり金銭的価値)で表現し、市民の理解を助け、施策を誘導しやすくする試みも採られています。
経済学的な評価においても、生物多様性は極めて高い価値を持っています。
生物多様性は、実は民間に任せていても適切な管理が基本的には望めません。
「好きな生物」「嫌いな生物」が人によって様々であるため、民間に任せれば声の大きさ勝負になり、やったもの勝ちで偏った保全に向かってしまうからです。
最も重要な「バランスを取る作業」を民間では誰も担えません。
こういった側面から見ても、行政が主体となって対策を構築せねばならない、極めて公共性が高い分野なのです。
公共性と行政の役割という点では、高度成長期に問題となった公害が、生物多様性の問題に似ています。
しかし公害は同じ時点に直接的な加害者と被害者がいて、誰もが直接的な被害者となりうるものであり、社会的に制度への要求が高まりやすい問題でした。
生物多様性は、問題となる「行為」とその「結果」の間に大きなタイムラグと生物間の相互作用が存在し、「結果」によって被害を受けた人が文句を言ったところで後の祭りであるし因果関係の証明が難しい、という性質を持つ問題です。
「後世のために予防的に対策せよ」という声は、利害が明確である現在の課題に比べると、残念ながら取り上げられにくいものです。
このため「どのように理解者を作るか」、そして「どのように社会システムに組み込むか」という点が、生物多様性保全においては極めて重要になっているのです。
生物多様性に関しては多くの誤解があるように感じられます。
例えば「自然とは森林である」というような思い込みもその一つです。
「自然保護と言えば植樹」というようなステレオタイプな意見を多く見聞きするのですが、現在の日本は森林が限界まで育っている地域が多く、もはや木を植える場所がありません。
日本で減少している環境は森林ではなく、湿地・草地・荒地のような、人が利用しやすい環境や工事によって安定化させようとする環境のほうです。
google map の航空写真を見てみて下さい。
日本は現在、森林と開発され尽くした平野で構成されています。
生物多様性では「景観の多様性」が最も重要視されます。
森林だけでなく水辺や草地のような多様な景観がバランスよく存在することで、種の多様性も維持されやすくなるからです。
それ以外にも「絶滅危惧種の域外保全」が生物多様性保全の中心であるかのように錯覚している人も多く存在します。
予防原則から考えれば、より多くの種を保全するために多様な景観の保全を何よりも優先しなければなりません。
自然環境の中の重要な景観が無くなってしまえば、数種の生物が域外で保全されたとしても、その背景で膨大な種が滅びます。
数種の生物が生息地の外で存続していても、その生息地が消滅すれば再起ができません。
生息地は多くの生物種を構成要素とする「生き物」であり、一度失われれば元の構成と関係が復元できないからです。
例えば我が子が死にそうな時に、子の血液を採取して冷凍保存し「これで安心だ」という人はいないでしょう。
死んでしまえば元も子もありません。
「特定の種のみを保護する」考えは保全の全体像から見れば異質なものです。
もともと生物多様性保全の最大の目的は「人の生活を安定させる生物環境」であって、特定の種に絞った保全ではないのです。
もう一つ、生物多様性についてよくある意見が「外来生物を環境に導入すれば構成種が増えるではないか」というものです。
しかし外来生物は、在来生物との相互作用について全く未知の存在です。
一度在来の環境に放たれれば、どのような影響を及ぼすか全く分かりません。
ただ、侵略性の強い(ことが明らかになった)外来生物では、侵入した環境において構成種の大幅な減少が起こります。
つまり、外来生物1種を入れることによって、結果的に膨大な数の在来種を減らす可能性があるのです。
国内の生物多様性の減少理由は大きく分けて4つあります。
①開発や乱獲
②人による継続的な干渉の撤退
③外来生物(「外来生物に開かれた国」を参照)
④温暖化等の地球環境の変化
環境省のサイトにその他の内容も含めて示してあります。
分かりにくいのは②の「人による干渉の撤退」でしょうか。
これは特に里地里山の環境に起こっている問題です。
里地里山環境は農林業をはじめとして、薪集め、炭作り、萱場(屋根等の材料)管理、狩猟、山野草の採集のような様々な用途で数百年にわたって利用されてきました。
長期間にわたって人が利用する状況が維持された結果、その環境に順応した生物が多く繁栄し、人が手を入れ利用し続ける里地里山が一つの重要な景観として機能するようになりました。
しかし近年になって里地里山で利用されてきた資源の需要が低下し、広い範囲で人の手が入らなくなり、多くの問題を生じるようになっています。
(「大型哺乳類によって生じる問題の背景」を参照)
実際、国内の絶滅危惧種にはライフサイクルのどこかで里地里山環境を利用する種が多く含まれています。
ただし、これは薬品を大量に使うような近年の農業を盛んにすれば解決する話ではありません。
近年の農業形態が理由で減少した種も多くいるからです。
長期的に見た里地里山の利用の在り方をどのように復元するか、あるいは別の利用形態で代替する方法があるのかを考えていく必要があります。
実は①の「開発」も誤解を含んでいるかも知れません。
開発と言えば大規模な埋め立てや森林の伐採が思い浮かぶと思いますが、広い範囲にわたって画一的な方法で行われる小規模な工事も生物多様性へ大きな影響を与える場合があります。
例えば三面張りの水路や道路の法面工事、砂防や治水関連の工事などは、当該地域における生物の特殊性への配慮無く、国内の広い範囲の隅々まで似たような方法で行われています。
特に人の生活に近い平野地域は生物多様性をまるで無視した設計となっており、一様に広がる人工的環境が外来生物の定着を加速させている側面もあります。
大規模な開発行為に関しては環境に与える影響が一般に知られるようになり近年は数が大幅に減少しましたが、小規模な「見えない開発」はいまだに特定の景観を塗りつぶし続けているのです。
多くの絶滅危惧種は、生息環境(景観)の悪化を主因として減少しています。
では、生息環境に影響を与えうる行政機関と環境省の力関係(人員と予算)がどうなっているのかを見てみましょう。
(各省庁の内部は細かく分かれていますが、今回はまとめます)
このように、圧倒的な差です。
農林水産業や土地利用、工事等に関して、環境省は口出しできるような規模ではありません。
行政内にはよく言われる「縦割り」というものが存在しており、ある省庁が他の省庁に対して負担を強いるような行為は御法度となっています。
弱小省庁から大きな省庁に注文をつける場合であれば、なおさらです。
農水省も国交省も「生物多様性保全?環境省で勝手にやんな。うちはうちで手一杯だよ。」という立場でしょう。
生物多様性の保全自体に価値が無いのかと言えば、当然そうではありません。
先述のTEEBの発想に基づき、国内でも金額で示された例があります。
例えば、農業の総産出額約9.3兆円に対して農業の多面的機能の評価額は8兆円と試算されています。
(生態系サービスとほぼ同質のものを農水省では多面的機能と呼びます。)
林業においては木材の総産出額2500億円に対し、多面的機能評価額は70兆円にものぼります。
ソース:多面的機能評価額
これらの評価額はストックではなく毎年生まれている価値です。
しかしこの「多面的機能」の維持管理は環境省ではなく農水省の管轄となっているため、これを名目とした事業であっても生物多様性への配慮は残念ながらほぼありません。
つまり環境省は、自然公園等を除いて、生物多様性で最も重要な「生息地(景観)保全」のオプションを実質的には奪われている状態なのです。
これがある意味、域外保全や特定のマスコット種の保全へと環境省が逃げる理由になっています。
こんな状況であれば、農水省や国交省の内部に生物多様性保全部門を設けている形のほうがまだマシかも知れません。
生物多様性の保全は、莫大な資産の維持管理のようなものです。
国交省の予算を見ても、予算総額の何割かはインフラの維持管理や災害復興等のために使われています。
環境省も同様に、資産価値に応じた維持管理のために、十分な予算と人員が必要です。
しかし現実はグラフの通りです。
先述した通り、生物多様性の価値と保全する意味が一般に浸透しておらず、行政対応の面で単純に軽視されているのです。
その理由は何か?
実に情けない話ですが、それは直接的な要望が上がってくる他の政策課題に比べて文句を言う人が少ないからでしょう。
結局のところ、多くの理解者と声を集めることでしか事態は解決しません。
環境省は非常に弱い立場に置かれています。
生物多様性に関心のある方々が、多くの課題について環境省を責めたくなる気持ちも分かります。
しかしまずは、「環境省の権限と機能を強化しろ」という部分から発信していくべきではないでしょうか。