オオカミの導入という夢

Pocket

シカやイノシシのような大型哺乳類の増加による問題に対し、国内にオオカミを導入して対応すればよいのではないか、といった意見がちらほら見られます。

オオカミという生物の生態や現在の日本の状況から、実現性や効果を考えてみます。

① 海外での導入例

オオカミの再導入についてはイエローストーン国立公園の例がよく取り上げられます。

イエローストーン国立公園では、1926年の確認を最後にオオカミが絶滅していた期間がありました。

その結果、エルクのような偶蹄目の採食圧によって植物が大きく圧迫され、その環境の変化によって他の多くの生物が影響を受ける状態となったため、1995年にオオカミの再導入が開始されました。

ソース:イエローストーンの計画書(大きいので注意)

再導入はすんなりと進んだわけではなく、地元の牧場との補償面での合意や環境保護団体からの反対、いくつかの訴訟を経て実現に至っています。

現在ではオオカミが絶滅していた期間に見られた影響が軽減されていることが確認されています。

一方、家畜への被害とオオカミによる人身被害が発生・増加しており、この点については今後も課題となっていくでしょう。

ソース:再導入例について紹介する国内の報告

② オオカミ導入の効果は

イエローストーンと日本のオオカミ導入は、実は、目的が全く異なります。

イエローストーンの場合は「公園の観光資源(植物)へのエルク等による悪影響を管理するコストの低減」と「新たな観光資源(オオカミ)の作出」という目的でした。

イエローストーン国立公園内ではハンティングが禁止されており、周辺からハンターに追われた偶蹄類が公園内に集結してくるが、狩猟解禁は公園の性質上難しい、という背景もあったようです。

一方日本の場合は、ほぼ「シカやイノシシの農林業被害対策」としてオオカミの導入を考える傾向にあります。

これは重要なことですが、イエローストーンではシカ等の農林業被害軽減を目的にオオカミを導入したという認識は全くありません

目的が異なれば、方法の効果は全く異なります。

日本は逆に「生態系への影響の軽減」を実質的な目的としたシカ管理の予算をほとんどつけておらず、山林内のシカについては放置している状態です。

日本国内の農業被害はシカとイノシシを合わせて100億円程度で、イエローストーンでのオオカミの試験的導入の予算は7億円程度を見込んでいました。

ソース:イエローストーンの計画書(大きいので注意)

イエローストーンの面積が約9000㎢ですので、日本の山林面積に換算すると導入コストは単純計算で約200億円となり、大赤字です。

加えてイエローストーンには、公園管理のためのスタッフと設備(及びその予算)がもともと整った環境がありました。

ちなみにオオカミ導入により農林業被害がゼロになるわけではありませんし、オオカミ導入による農業被害上マイナスの効果も考えられます。

オオカミを導入する場合は、オオカミが人家付近に出て来ないようにコントロールされることが前提となるはずです。

このため、山林内のオオカミに圧迫されてより「より安全な」農地や都市近郊にシカやイノシシが逃げ出してくる可能性があります。

これは、人の誤射を恐れ山奥に入って捕獲を行うハンターが増えたことによって里地周辺に獣が集まる状況と同じ構図です。

農業被害に加え、交通事故のような人身被害も増加する可能性があります。

農林業被害を抑えたいのであれば、まずは被害を受けた農家が自分で捕獲できるよう対策環境を整備(リンク先⑥)するのが先でしょう。

生態系サービスの観点での損害を考えるのであれば、オオカミ導入を議論するより先に、対象とする生態系サービスの価値や損害を算出し、シカ管理を目的とした十分な予算と体制の確保を議論すべきでしょう。

シカの管理にすら十分な体制と予算がついていないのに、より困難なオオカミの管理を増やそうというのでは本末転倒です。

③ オオカミ導入の生態学的リスク1

イエローストーンと日本のオオカミ導入は、全く環境が異なります。

イエローストーンは北米大陸で陸続きのカナダから再導入されましたが、日本の場合は海を隔てた海外から導入されます。

これは実はかなり重要な観点です。

多くの動植物種や感染症が共通で移動も自由である環境か、そうではない全く別の環境であるか、というとても大きな違いがあります。

問題はまず、狂犬病をはじめとする感染症です。

検疫の期間を十分な配慮と共に取る必要があり、現地での捕獲、空輸や餌の管理、一時保管等のコストが北米の事例よりも多大になることが予想されます。

動物園等の飼育個体を用いれば良いという意見もあるかも知れませんが、人に馴れた大型の肉食獣は極めて危険で、人身被害や人家周辺への出没リスクが非常に大きいため、これらの放獣は選択肢に入りません。

飼育個体はシカやイノシシの捕獲方法を十分に学ぶ機会が無いため、自然な餌を十分に得られず、人工的な環境の楽な餌に集中する可能性が高いのです。

加えて、導入種と絶滅種との生態学的な差に関する問題があります。

絶滅してしまったニホンオオカミは、タイリクオオカミの亜種であるとされています。

日本に導入する際の候補として挙がっているのは、このタイリクオオカミです。

しかし、ニホンオオカミとタイリクオオカミの間にはツキノワグマとヒグマ(リンク先①)並みのサイズの開きがあります。

  ニホンオオカミ エゾオオカミ タイリクオオカミ
生息地 本州以南(絶滅) 北海道(絶滅) ユーラシア大陸
体長 95-115㎝ 120-129㎝ 100-160㎝
体高 56-58㎝ 70-80㎝ 60-90㎝
体重 15㎏   25-50㎏

北海道に生息していたエゾオオカミについては、大型であり、遺伝的にも大陸の亜種とかなり近縁であったことが明らかになっています。

このため導入に関する真剣な議論は、北海道、特に知床国立公園に偏ります。

ソース:知床博物館1
ソース:知床博物館2

しかし本州への導入については「再導入」とは呼べません。

ソース:IUCNのガイドライン

オオカミの導入を提言する一部の研究者は「絶滅種のサンプルが少なく、分類が正確でない」ことを根拠として「同種である」と表現し、本州への「再導入」は問題ないという、かなり論理が破綻した意見を示しています。

本州での導入を考える場合は、ニホンオオカミの「生態学的代用」という観点でタイリクオオカミの導入が議論されることになります。

つまり「一つの道具である」という考え方です。

IUCNのガイドラインでの趣旨は「生態学的に機能を代用する種であるべき」というもので、その候補として亜種や近縁種があると述べているに過ぎず、遺伝的に見て亜種の関係であれば何でも良いと言っているわけではありません。

亜種なら何でも良いのであれば、タイリクオオカミの1亜種である「イヌ」でも問題ないという考え方になります。

生態学的な機能を考えた場合、サイズというのは非常に重要な因子です。

タイリクオオカミを本州に導入した場合、他の大型~中型獣への圧迫、そこから派生する影響の偏りは、ニホンオオカミと全く異なるものになるでしょう。

ニホンオオカミのように亜種に分かれた後に長い時間が経過している種では、生態学的に許容できる範囲の類似性を持つ種は存在しないと考えるべきです。

イヌを見れば分かりますが、サイズが同じでも性質や行動は全く異なります。

エゾオオカミを見ても、タイリクオオカミが亜種の関係だからと言って、北海道内で時間をかけて適応してきた生態学的機能と大陸の中で適応してきた生態学的機能の間には当然差があります。

一般に、大陸の生物を島国に移動させる行為は、逆に比べてインパクトが大きくなる傾向にあります。

陸続きの環境での再導入は「放っておけばいずれ入ってくるものを加速させる」だけの作業ですが、海を越えるものは意味が全く違うのです。

④ オオカミ導入の生態学的リスク2

同じ地域に同種を導入する場合であっても、人の活動や外来生物の定着等の変化により、時代や年代によってその種の振る舞いは異なってきます。

例えば、シカやカワウのように、一時期絶滅を危惧されるほど減少した在来種が現在急激に増えているのは、シカやカワウが変化したのではなく人的要因や環境、生物間の相互作用が変化したためです。

日本の国土のほとんどは、イエローストーンのように自然なバランスのまま残されてきた環境ではありません。

国内の環境や生物種の構成は、オオカミが絶滅した後の100年でどれほど変化したのでしょうか。

現在の環境に送り込まれたオオカミはどのような振る舞いを見せるのでしょうか。

オオカミが定着した後に何が起こるのか、問題が生じたとしてそれが生じる分野はどこなのか、規模と範囲はどれほどか、コントロールにどれほどのコストがかかるのか、そもそもコントロールできる類の問題なのか。

分かっているのは、それらが誰にも分からないという事実だけです。

マングースやオオクチバスのように、生物を導入する場合、問題が生じるのは期待した効果以外の予期しない側面であり、自分よりも後の世代になって、長期にわたる困難な問題となる場合が多いことを忘れてはいけません。

これらの失敗は「分かっていたらやらなかった」し「分からなかったから失敗した」ものです。

当時の生物学者は、当時知り得ることは知っており、当時考えるべきことは考えており、そのうえで失敗しているのです。

こういった失敗の歴史を踏まえて、自分が知らない現象、現行の科学が知らない結末を避けるために、予防原則が叫ばれています。

一部に見られる「同じオオカミだから大丈夫だ」という意見は、生物の不確実性と現行科学の限界、自分の無知をリスクとして認識できていません。

巨大な損失を未来の世代に残す可能性を秘めた「生物の導入」は、他のどんな施策よりも慎重であるべきなのです。

生物の振る舞いというのは、全く明らかになっていない幾千幾万の種との相互作用とバランスによって現れてくるからです。

⑤ オオカミ導入の社会的なリスク

生態学的な課題を解決したとしても、もう一つ大きな課題が残っています。

それは、人や社会との軋轢です。

オオカミは100~1000㎢程度の非常に広大なナワバリを形成します。

そんなナワバリを許容できる場所はあるのでしょうか

例えば100㎢の範囲を考えると、ほぼ直径11㎞の円の面積に相当します。

日本の地図を見てみましょう。

北海道に関しては可能性がありますが、本州以南では国道や都府県道にほぼ間違いなくはみ出してしまいます。

そこには、オオカミがいないことを前提とした無数の生活があります。

何より、シカやイノシシの問題を解決すべき現場のほとんどは、山奥ではなくそういった道沿いに存在しているのです。

オオカミは家畜、犬、人に対して被害を出しますが、周辺の住民に対して「家畜の柵を強化しろ」「犬の外飼いや散歩を控えろ」などと要求はできません。

そんな環境にオオカミを抱えれば、遭遇や人馴れ、被害が多発してオオカミはすぐに駆除・根絶の対象となり、導入者は訴訟に追われるでしょう。

日本でのオオカミは在来生物ではなく、シカ等の管理コスト軽減のために導入される「道具」であるため、「種を残すこと」は導入の目的にはなりえません。

被害に対する補償やオオカミの生息域の把握・管理を含めたコストは、シカ等の管理コストとは別に(恐らくはより大きな規模で)発生します。

人身事故も、扱いが非常に難しいものになります。

ツキノワグマのように在来の生物であれば「昔から存在するリスク」として許容できる部分がありますが、導入したオオカミが人身事故を起こせば、その責任は導入した者にあります。

イエローストーンのような「訪問者の自己責任」という意見は出てきません。

もう一点不安視されるのは、人馴れ個体や人身事故を起こした群れなど、危険な個体が生じた際に、日本の現状で的確にそれを除去する技術と人材を確保できるのか、という部分です。

特に、広い範囲を移動する特定個体の捕獲は困難を極める作業で、シカの捕獲すら難航している国内の状況を見ていると、広い範囲をカバーした対応は不可能であるように思えます。

イエローストーン国立公園のように、広大で、土地の管理者が単一であり、オオカミが観光資源として有益で、優秀なスタッフと財源が既にあり、範囲内の人間が全てビジターである環境は、日本にはどこにもないのです。

農業被害対策としても、生態系サービスの管理を目的としても、社会的な措置や運用に関するコスト、問題の処理業務が膨大となるため、オオカミの導入は費用対効果の極めて低い対策オプションとなるでしょう

⑥ そもそも定着できるか

オオカミは現在、多くの先進国で保護されています。

その事実からも明らかですが、オオカミは広大な生息域を必要とする種であり、簡単に定着できる種ではありません。

ニホンオオカミが絶滅した理由は諸説ありますが、犬由来の感染症、餌資源の不足、人為的な駆除、生息域の分断等の複合的な要因が挙げられています。

このうち改善されていることが期待できる要因は餌資源の不足だけです。

一方、犬由来の感染症、生息域の分断、人為的な駆除については環境がむしろ悪化していると考えるべきでしょう。

犬の飼育頭数は戦後から増え続けています。

ソース:厚労省統計

100年前に比べて犬の予防接種等の環境が改善したとはいえ、犬の頭数増と不顕性感染の増加、道路の整備による山林と人家の接近により、ジステンパーやパルボのような犬の感染症がオオカミへ伝播する可能性は高くなっていると考えられます。

生息域と駆除についても、地図を見れば分かります。

100年前に比べて圧倒的に道は整備され、その結果山々は区切られており、人の生活圏が道に沿って広がっています。

ツキノワグマですら見かけただけで駆除の対象となり、野生動物の交通事故が多発するこの国は、オオカミにとって極めて危険な生息地です。

導入されたオオカミは在来ではなくただの「道具」としての存在ですので、一度被害が出れば駆除を誰も止められず、見かけただけで捕獲が検討されかねません。

これらの理由で、現在の日本にオオカミは十分に定着できそうに思えません。

定着したとして、保護が必要なほど弱々しいものになると考えられます。

もしオオカミを実際に導入する場合でも、現実的には極めて狭い範囲に限られるのではないでしょうか。

そしてそれは当初あった、農業被害の軽減や生態系サービスの維持という目的からは全く見当はずれで不十分な範囲と規模になってしまうはずです。

こういった目的から乖離した事業の終着点は様々な場所で見られます。

近年ではジビエがその例です。

オオカミについては幸い、法制度の問題や原産国との調整といった事務的な課題が多く、本気の実施へは動いていません。

ここから起こりうるのは、実際にはできないのに放獣予定としたタイリクオオカミの飼育や、再導入地の現地視察というような行き止まり事業、無駄遣いです。

これらについては、引き続きしっかりと監視しておく必要があるでしょう。

⑦ なぜこのような意見が?

これまで見てきたように、国内へのオオカミの導入については大きな矛盾とリスクが存在します。

ではなぜ、オオカミの導入を推進する研究者がいるのでしょうか。

一つは、やはりイエローストーンという導入例です。

国内には大型の捕食者が存在しない(クマ類はほぼ植物食:リンク先①)ため、それらの保全や管理に関わりたいと考える研究者が、イエローストーンの管理体制に憧れを抱き、無理に導入を進めようとしているように感じます。

もし導入が進展すれば、それを進めていた研究者は当然この分野の中心となって独占的に研究でき、身内の就職先として管理スタッフを配置できるというような絵も描いているかも知れません。

研究者も人間ですので興味や願望は当然ありますが、これは日本の自然環境と地域住民の生活の場を実験場とする発想であり、全く擁護できません。

もう一つは、メディアや学生等の集客力です。

オオカミの復活という言葉にはかなりのインパクトがあり、導入の課題等の詳細を知らない素人の取材者が「良いアイディアだ」として取り上げる傾向があります。

大型肉食獣に興味がある学生は多く存在するため、研究室や大学そのものも集客効果が見込めるのです。

オオカミの導入を進めようとする研究者には、いくつか特徴があります。

一つは、オオカミの導入に関するコストや効果等について、捕獲を含むその他の被害抑制手法との現実的な比較をしない点です

あったとして、たとえばオオカミがシカだけを捕食し森林面積ぎちぎちに群れが配置されるような、かなり希望的な試算が基になります。

海外における再導入は陸続きの地域で行われるものばかりなのですが、日本においては海を越えた再導入になるという手法の特殊性にも触れません。

人身被害についてもかなり楽観的であり、詳細な分析が無い点も特徴です。

オオカミの擁護者となって「安全である」という意見のみを繰り返し、論理的な被害リスクの説明が無いのです。

オオカミの人身被害は、周辺環境やオオカミの個体数に当然影響を受け、人の土地利用や人口密度、それによる人馴れにも影響を受けます。

日本に導入した場合どの程度の被害が予想されるのか、シナリオを分けて提示すべきでしょう。

問題の効率的な解決に興味がなく、オオカミの導入そのものが目的であるためにこのような傾向になるのではないかと思います。

願望が先に立ち、理屈が後付けなのです。

もし導入を実現させたければこういった詳細な分析は隠さずに出したほうが良いと思うのですが、この分野の研究者もそろそろ撤退の準備を考え始めているのかも知れません。

上のタブをクリックすると展開します。

“オオカミの導入という夢” への1件の返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。